聖徳太子(蘇我入鹿天皇)の皇居は鳥取県北栄町由良宿にあった

 

1 皇居と産屋の距離

(1) (瓊々杵命)鳥取県北栄町下種集落 大宮神社

(2) (木花之佐久夜毘売)鳥取県北栄町由良宿 高江神社

    (1)〜(2)の間は4.1km

(3) (神武天皇鳥取県倉吉市大宮集落

(4) (媛蹈鞴五十鈴媛命鳥取県倉吉市耳集落

    (3)〜(4)の間は3.7km

(5) (蘇我馬子天皇鳥取県北栄町島集落

(6) (物部鎌姫大刀自)鳥取県倉吉市馬場町

    (5)〜(6)の間は3.7km

(7) (物部氏の本拠地)鳥取県倉吉市大原集落

    (6)〜(7)の間は4.2km

 瓊々杵命と神武天皇蘇我馬子天皇の皇居と産屋を上記のように比定したのだが、3人とも産屋との距離がほぼ同じように思われる。当時の皇居と産屋の距離は4km前後であったと思われる。これは偶然ではなく、比定地が正しいからと思われる。

 また、厩戸皇子の生まれた物部鎌姫大刀自の産屋を倉吉市馬場町に比定したが、蘇我馬子天皇の皇居のある北栄町島と実家のある物部氏の本拠地の倉吉市大原と同じような距離になる。

 これら7つの比定地は正しいものと思われる。

2 聖徳太子蘇我入鹿天皇)は厩戸で生まれたが、厩の中で生まれたキリストと重ねるべきではない。「イエス・キリスト誕生の逸話が聖徳太子伝説に借用された」とする説があるが、イエス・キリスト誕生逸話を借用するならば、厩の外ではなく中で生まれたとすべきであるのに、あえて厩戸で生まれたとしている。これは聖徳太子が厩戸の前で生まれたのが史実であるからであり、2人とも厩が関係しているのは偶然と思われる。聖徳太子蘇我入鹿天皇)は応神天皇の時代に新羅から贈られてきた馬を飼育していた「軽の坂上の厩」(倉吉市馬場町)の戸の前に造られた物部鎌姫大刀自の産屋で厩戸皇子として生まれた。「蘇我入鹿」や、善徳の一字を取って「聖徳太子」と名づけたのは後の藤原氏であり、本名は蘇我善徳である。「厩戸皇子」や「豊聡耳」はあだ名を付けるのが好きな鳥取県中部の住民が付けた蘇我善徳のあだ名と思われる。

3 甘樫丘東麓遺跡と由良遺跡

(1) 蘇我蝦夷・入鹿は甘樫丘にそれぞれ居を構えた。 日本書紀では、蘇我蝦夷の邸宅は「上の宮門(みかど)」、蘇我入鹿の邸宅を「谷(はざま)の宮門(みかど)」としている。

(2) 甘樫丘東麓遺跡現地説明会資料(奈良文化財研究所)調査成果 7世紀前半

 「調査区内の自然地形は、南北方向に谷筋が入っていました。この谷筋の中央に石垣を築いて東側に一段高く敷地を造成し、建物を建てます。石垣は東側の敷地の法面を構造的に保護するとともに、迫力ある敷地構えをみせる視覚的な効果も果たしていたと思われます」とある。

 甘樫丘東麓遺跡は蘇我入鹿の邸宅跡とされる遺跡であることがほぼ確定された(朝日新聞)。蘇我入鹿は整地をして、家の外に城柵を巡らせていた。

 蘇我蝦夷が邸宅で「天皇記・国記・珍宝」を焼き、自害したとする記述につながる「上の宮門」の焼け跡は見つからなかった、とする。

(3) 由良遺跡発掘調査報告書に「大栄町は、大山火山の北東麓にあたり、広く火山灰山におおわれているが、今回の発掘調査の試掘トレンチの断面より土層序は、地表から、(1)黒灰色の耕作土、(2)黒色粘質土(3)暗褐色粘質土(4)黄灰色砂質土となっていたが町内の畑地帯で一般的に見られるクロボクは認められなかった。遺構が検出された砂質ぎみの黄灰色土、又は、黄褐色土の緻密で堅く安定な地盤であった」とある。

「また、柵列跡とした遺構があるが、隣接した遺構に関係したものと考えるには、無理があるかもしれない。また、遺構として存在したこと自体が疑わしい」とする。

4 私見

(1) 先代旧事本記天孫本紀に「物部氏十五世孫・物部鎌束連公の妹に物部鎌姫大刀自連公。・・・。宗我嶋大臣の妻となって、豊浦大臣をお生みになった。豊浦大臣の名を、入鹿連公という」とある。

 甘樫丘の上に「上の宮門」の焼け跡は見つからないのは、蘇我蝦夷は架空の人物だからと思われる。

 宗我嶋大臣は蘇我馬子のことであり、島に住んでいたから嶋大臣と呼ばれていた。豊浦大臣とは蘇我蝦夷ではなく蘇我入鹿のことであった。蘇我入鹿は豊浦に住んでいた。元興寺縁起では等由良(豊浦)宮が3回書かれている。豊浦(とゆら)の元の字は等由良であるから蘇我入鹿は奈良では等由良に住んでいた。

 蘇我馬子天皇であり、鳥取県北栄町島に皇居があったことは、磐余邑、池の配置、池上の陵、複数同一棺埋葬墓の存在など、以前のブログを参照されたし。

 蘇我入鹿の父は蘇我馬子であった。奈良の宮は等由良の宮であったが、皇居は蘇我馬子天皇と同じ鳥取県北栄町の由良の宮にあった。

(2) 蘇我入鹿天皇聖徳太子)は皇居(由良の宮)を鳥取県北栄町由良宿の丘陵地(現在、大栄小学校・大栄中学校・鳥取中央育英高校・北栄町役場がある)に置いた。由良の宮で、蘇我入鹿天皇の皇子である大海人皇子や、百済の人質の豊璋(中大兄王子)と塞上は育てられた。

 中大兄王子(豊璋)は、育ての親の蘇我入鹿天皇蘇我馬子と共に遣隋使を派遣した)から「大国維新之化」の話や「日の出ずる国の天子・・・」の話を聞いていたと思われる。中大兄王子(豊璋)は大化の改新や日本という国号の参考にした。

 「大化の改新」は蘇我馬子天皇が隋国の裴世清に「どうか大国維新之化を教えていただきたい」と言った言葉から出ている。大国維新之化(大化の改新)とは列島の道路建設などのインフラ整備のことであった。藤原京平城京の建設もその一環であった。大化の改新(大国維新之化)は645年に急に始まったのではなく、隋の裴世清たちに教わったときからすでに始まっていた。

(3) 蘇我入鹿天皇は半径500mの広大な由良遺跡のクロボクを取り除き緻密で堅く安定な地盤に整地していた。由良遺跡発掘調査報告書の報告者は「柵列跡とした遺構」を否定するが、城柵が脳裏をかすめ「そんなはずはない」と否定したと思われる。蘇我入鹿天皇は由良宮を柵で防御していたと思われる。

 甘樫丘東麓遺跡を大豪族の邸宅跡とするには小さすぎる、とする見解がある。蘇我入鹿は豪族ではなく天皇であった。皇居は鳥取県北栄町由良宿の半径500mの広い丘陵台地にあったから、甘樫丘東麓遺跡は奈良での仮の住まいであり、小さくてもよかった。